私たちが信じていること
- 私たちの信仰 ◎
キリストを信じるということは、その人の心の状態ではなく、心の向かう方向を問題とする非常にダイナミックな事柄です。キリストを信じるということは、心の向かう方向を定めて、生涯を歩み始めることを意味しているのです。
私たちが信じる神は天地が創造される前から存在し、この天地が終わったあとにも存在し続ける天地の創造神であって、自らの名を問われた時、「わたしは在る・存在する(ヤハウェ)」と答えられた神です。天地の支配者であって、唯一・絶対・永遠・不偏(不変)の全知全能なる神です。
そしてイエス・キリストとは、聖霊なる神と共に、その「在る」と宣言される神と一体をなす神の子であって、イエス・キリストとは「イエスがキリスト(救世主)である」という信仰告白にほかなりません。主イエスお一人だけが、永遠の昔から、本当の意味での神の子でした。けれども神は、罪のもとに縛られていた人間を憐れみ、救うために、この神の独り子をまことの人とならせてくださったのです。そしてキリストは十字架にかかって、本当なら人間が負うべき罪の裁きを身代わりとなって担い、死に、そして復活してくださった。それによって、信じる私たちを、赦し、救い(永遠のいのち)に導いてくださったのです。
信仰を持つということは、その神との人格的な関係を築くことであり、神と共に歩み始めることを意味しています。まことの神を知り、信じてこそ、私たちは不安から解放され、活き活きと生きることができます。神を信じる者とは、自分が弱いことを知っている人のことです。それを隠さずに、神の御前で告白し、悔い改める人のことです。つまり、自分の本当の姿を知っている人のことなのです。そして神を信じる者とは、同時に、その弱い自分を赦してくださる神の愛を知っている人のことです。だからこそ、この神の愛に押し出されて、あきらめずに、粘り強く生きていくことができるのです。
復活の主は今も生きて、私たちを教会へと招いてくださいます。その招きに応えるかどうかが、私たちは問われています。ですから、私たちの信仰は、いつも心の向かう方向を問題としている信仰と言えるのです。
- 礼拝とは? ◎
私たちの考える礼拝とは、自分の満足のための礼拝ではなく、神さまに喜んでいただける礼拝です。神さま中心の心で礼拝を捧げるとき、私たちは神さまの臨在を感じることができます。そしてその時、礼拝は儀礼を越える生きた神さまとの交わりの時となるのです。
クリスチャンに求められているのは、まことの神さまを礼拝するということです。私たち教会のささげる礼拝は、私たちの真実な礼拝の姿によって、世の神さまを知らない人々に神さまを示すため、ささげられます。日曜日、何をさしおいても礼拝を守る、それは人々に驚きを与えます。日曜日は、週の最初の日です。一週の仕事を終えて礼拝に帰ってくる、そして礼拝から新しい週の歩みが始まるのです。日曜日をしっかりと主の始まりの日と位置づけることは、仕事中心、経済中心の生き方から、神さま中心の生き方への方向転換を意味しているのです。教会は礼拝共同体といわれています。そして、 礼拝は唯一の神さまであるイエス・キリストに目を注ぐ時なのです。礼拝に集められた私たちは異なった価値観を持ち、感覚、感情を持って生活をしています。こんな私たちが一つとなることは本当に難しいことです。しかし、私たちは同じ神さまという一つの方向に心を合わせることができます。そして私たちは、主の日の礼拝によって一つの群れとされているのです。神さまを愛している、大切に思っているということは言葉ではなく礼拝を守るその姿によって、人々に伝わるのではないでしょうか? ですから日曜日に礼拝を守ることによって私たちはクリスチャンとしてのアイデンティティを確立していきます。私たちは、ともすれば困難に負けてしまいます。主の恵みを忘れ、この世に流されてしまいます。日曜日は私たちに神さまの恵みを思い出させてくれる日なのです。だからこそ、私たちは、礼拝を守ることができることの恵みを忘れないのです。